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一年の中でも八月は『国防』という問題を考える上で特別な意味を持っている。

 

それは、先の大戦において広島及び長崎に原爆が投下された月であり、敗戦という形で戦争が終結した月だからでもあろう。

 

現代の日本において、日常生活の中に『国防』という問題を意識する機会は極めて少ない。

 

それはそれで、ある意味日本国民にとっては非常に幸福な状況であるといえる。

 

しかし、『安全保障と水が無料(タダ)』だと考えているのは、世界広しと言えども日本人くらいなものという現実をご存知だろうか?

 

日本の常識は、世界では非常識であるという顕著な例の一つなのである。

 

長い時間をかけて危険予知能力を意図的に鈍くされた結果、すぐそこまで忍び寄っている大きな災厄に気が付いていないだけなのだ。

 

今回の記事は、せめてこの八月という特別な時期だけでも、『国防』について向き合ってみるべきではないかという思いに端を発している。

国防とは?

では

『国防とは何か』

というと、何だかいかにも大仰で大上段に振りかぶったようなイメージがあるが

 

その根底にあるものは

『愛する人たちが理不尽に権利を侵害されることを防ぎたい』

という気持ちだと考えている。

 

自分の両親、配偶者、兄弟姉妹、子供など家族を愛し、その生命財産を守りたいと思う気持ちはごく自然であり、僅かな例外を除き誰でも持っている感情ではないだろうか?

 

この感情の適用範囲を拡大すれば、親類縁者、知人友人、会社同僚、近隣住民、同一市県民、同一地方民、ひいては全日本国民へと到達することができる。

 

また、この対象は何も『人』に限ったものでなくてもいい。

 

生まれ育った故郷の山や川、歴史的建造物、我が国がこれまで築き上げてきた文化など、有形無形を問わず『守るべき対象』はあるのだ。

 

このように『自分にとって大切なものを守りたい』という気持ちこそが『国防』の根幹だと思うのである。

 

ところが、これを

『日本国及び日本国民を守ることが国防だ』

というマクロ的な立ち位置から解釈しようとするから、本質が見えにくくなってしまうのではないだろうか?

 

守るべき対象があまりにも大きく、また、抽象的であるがゆえに焦点がボケてしまうのだ。

 

だからこそ、まず人間の根幹にある自然な感情を正しく理解することから始めるべきだと考えるのである。

戦争とは?

引き続き

『戦争とは何か』

という問題についても言及してみたい。

 

もちろん、戦争について語ろうとすれば一冊の書籍にしてもなお語り足りない遠大なテーマであるので、ここでは基本的な事項の確認に留めざるを得ない。

 

しかし、意外とこの基本的な事項というものが正しく認識されていないのが実情である。

 

まず、大前提として

『戦争は政治の一部であり、外交の一手段である』

ということを一体どれほどの人が理解できているだろうか。

 

この認識が欠如していると

『軍の独走によって、戦争の道へと引きずり込まれた』

といった安易なレトリックに騙されてしまうハメに陥る。

民主主義国家における国民の責務

戦前の日本があたかも独裁国家であったかのような印象操作がなされているが、それは間違った認識である。

 

西欧諸国の掲げる民主主義と同質ではないものの、日本が独自の民主主義国家を目指していたことは間違いない。

 

それが目障りであったからこそ、当時の西欧列強によって次第に追い詰められていったという経緯を持つ。

 

ギリギリまで戦争回避に向けて努力を重ねたが、進退窮まった結果、国家として戦争に踏み切ったともいえる。

 

だからこそ、戦争に至った責任はやはり国民にあったというのが私の考えである。

 

結果が勝利であれ、敗北であれ、民主主義国家における責任の所在は国民にあるのだ。

 

とはいえ、人間は現状の不幸の原因を第三者の責任に転嫁したがる特性がある。

 

その深層心理を巧みに利用した戦後マスコミの常套文句とは

 

『あなたたち一般国民は何も悪くなかったんですよ。悪いのは全て戦争へと突っ走った軍首脳部なのですよ。』

というものであろう。

 

この理論が当時の国民の耳にどれほど心地よく響いたかは容易に想像できる。

 

しかし、これではドイツが

『悪いのは全てヒトラーとナチ党だ』

と言って自分たち一般国民とは切り離しているのと同様で、そこに本来あるべき自己責任という覚悟からはほど遠い。

絶対悪としての戦争

『戦争という悲惨な行為を二度と繰り返してはならない』

ということは個人レベルでは誰もが持っている共通の認識だといえる。

 

ではなぜ人類の歴史から戦争が無くならないのだろうか?

 

それは、極論すれば長い時間をかけて努力を積み重ね富を蓄積するよりも、武力(暴力)によって他人が蓄積した富を略奪することの方が容易だと認識されているからである。

 

更に言えば、どんなに不純な動機によって起こされた戦争であっても、最終的に勝者となれば全てが正当化されるということが歴史的に証明されているからである。

 

『歴史は勝者によって創られる』

という言葉通り、戦争後の世界秩序は勝者によって創られるので

 

『勝者は正義であり、敗者は不義である』

という単純化された価値観によって統一された世界が完成するのである。

 

世界中のあらゆる人々が平等に生きていける世の中というものは、理念としては素晴らしいが容易に実現するものではないだろう。

 

それはかつて主義思想による政治の力で人為的に平等な社会を目指した国家が、いずれも崩壊し終焉を迎えたという結果からも明らかである。

 

富と権力は一部の人間の下に集まるものであるし、それを略奪しようとするのは人間の本質に根差したものだからだ。

 

ゆえに、人類の歴史から戦争は無くならないというのが私の見解である。

独立国として再び立つ覚悟

現代の日本社会は戦争の敗者という前提の上にありながら、勝者の政治的都合によって奇跡的に復興する機会を得たという極めて不安定な土台の上にある。

 

誤解を恐れずにもっと単純に表現するならば、日本は戦後70年以上経過した現在でもなお『敗戦国』であり、本当の意味での『独立国家』ではないということだ。

 

しかし、年月の経過によって蓄積された世界情勢の変化に対応するため、かつての勝者から真の独立国家となることを求められつつもある。

(もちろん、勝者のコントロール可能な範囲内という制限はあるが)

 

先に述べたように、人類の歴史から戦争が無くならない以上、武力侵略に対する備えは必須である。

 

これは何も実際の武力侵略に対応する実行力だけではなく、むしろ、『武力侵略を企図することさえも断念させること』にこそ主眼が置かれるべきである。

 

この存在感(プレゼンス)こそが、専守防衛の要だと言えるだろう。

 

昨日まで平穏無事に生活できていたからといって、明日も同様に穏やかな暮らしが保証されているわけではない。

 

立つべき時に立たずして、国が滅びた後で悔やんでも、もはや取り返しはつかない。

 

だからこそ、先人たちは未来に繋がる私たちのために戦い、現在の日本の礎を残してくれたのだ。

 

現代生きる私たちがそれを為さずして、将来の子孫に合わせる顔があるはずもないだろう。

記事のまとめ

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当ブログを以前から購読頂いている読者様には周知のことと思いますが、私はこの種の政治的な臭いのする記事を書くことを好みません。

 

それは現役当時の『政治に関与せず』という習性が抜けきれないからなのかもしれませんし、『この種の大きな問題は語るべき資格を持った人が語るべきだ』という建前によって、自分の消極的な姿勢を良しとしてきたからともいえます。

 

しかし、今回あえてこの種の話題に挑戦した理由は

『日本国民の一人として、自分の為すべきことを為そう』

と思い立ったからに他なりません。

 

もちろん、記事の内容は現時点における私自身の思考に基づくものですので、正論でも正解でもなく、むしろ不備だらけであることは重々承知しています。

 

それでも、国防の実務に従事した者として

『実際に直面したリアリティを一部分だけでも伝えたい』

という思いを抑えることができなかったのです。

 

この記事を読んで、読者の皆様の心に何か響くモノがあったとすれば、これに勝る喜びはありません。

 

それでは、本日もここまで記事をお読み頂きましてありがとうございました。

 

また、次回の記事でお会いしましょう。

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