以前の記事で少し触れたのですが、海上戦闘には陸上戦闘ほどの現実感がありません。
目に見える敵(人間)を倒す(殺す)という現実感に欠けるのです。
水上艦艇同士の戦闘は、肉眼で視認不可能な遠距離でのミサイルの打ち合いになるでしょうし、対潜水艦戦闘では相手は水中にいるのですから、距離に関わらず目には見えないでしょう。
1991年1月17日、多国籍軍のイラク空爆によって始まった湾岸戦争ですが、その空爆の映像は未だに鮮明な記憶として脳裏に焼き付いています。
各国のメディアによって報道されるミサイル空爆の映像。
そのテレビゲームのような非現実感。
まさに現代の海上戦闘も同じ様相を呈しているといえます。
海上戦闘における敵とは、オペレーターの操作するコンソール上に表示された輝点(シンボル)でしかありません。
この輝点(シンボル)情報を収集分析し、その結果を我の武器管制システムに情報入力して攻撃、敵を撃破することによって輝点を消去すること。
まさにゲームのような手順を、いかに正確かつ迅速に実施するかということに集約されるのが海上戦闘です。
ですが現実にはこの輝点が消滅する現場において、壮絶な情景が繰り広げられているのです。
人が生きながらにして砕かれ、炎に焼かれ、艦と運命を共にして海底へと沈んでいく。
これこそが輝点が消滅するという現場の現実の世界なのです。
もちろん、自分たちもまた被攻撃によって同じく負傷、あるいは戦死する運命を共有しています。
これは世界各国海軍に共通の宿命だといえるでしょう。
我も彼も同じ人間である以上、制服を脱いで自宅に帰れば、良き子であり、良き夫(妻)であり、良き親であるという事実。
そう、平時であればお互い友人にもなれたであろう人間同士なのです。
事実平時の海軍同士の交流は、自国の陸空軍よりも親近感を覚えるものといっても過言ではありません。
このことを平時から訓練の際にしっかりと考えて、克服しておく必要があると考えていました。
自分の命令によって発射されたミサイルが敵にもたらすであろう結果について。
そして、その発射が遅れることが味方に与える影響について。
いざという時、躊躇なく命令を下すためには、この部分をしっかりと飲み込んで消化しておく必要がありました。
その時になって急に人間性に目覚めて、恐怖のあまり対応が遅れないために。
そして、正気を保ったまま冷静に戦闘を継続することこそ、職業としての海上自衛官の責務だということを見失わないために。
確かに画面だけだと、現実味はないですが、対潜戦とはテンポが違うので、躊躇する余裕はないのでは?
雷蔵 様
事象が生起したならば、あれこれ考えるまでもなくシーケンスに則って淡々と処理するのみですね。
もう一つ重要なことは哨戒長には『早口言葉』が必要不可欠な要素だということです。
どれだけシステム化しても、最後の最後は哨戒長が攻撃に至るまでの号令詞をどれだけ早く正確に滑舌良く言えるかという極めてアナログな部分にかかっているので責任重大です。
私は現役当時、冗談抜きで海に向かって
「あえいあおう」
という滑舌練習をしていました。
…意外とストレス解消にもなります(笑)