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「卒業したら海上自衛隊の幹部候補生学校に行くよ」

大学4年生の春に両親にそう言ったとき、父は

「お前の好きなようにすればいい」

と言ってくれましたが、母は激しく反対していました。

 

しかし、その反対を押し切って幹部候補生学校に行きました。(私は子供のころから自分自身の出処進退について、人の意見を取り入れたことは一度もありません。)

入校後は、次第に日に焼けて体つきも逞しくなっていく息子の成長を喜んでくれるようになりました。

晴れて幹部候補生学校を卒業するときには、江田島に見送りに来てくれました。

 

遠洋航海中も寄港地ごとに手紙を送ってくれて、沈みがちだった私の心を支えてくれました。

遠洋航海から帰国し実家に戻った時、父が駅に迎えに来てくれたのですが、いざ家について車を降りようとした時に

「母さんの見た目が変わっているけど、驚くなよ」

といわれ、何の事だかわかりませんでした。

 

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そして、玄関に待っていてくれた母の姿を見て絶句・・・しました。

私が遠洋航海に行っている間に、胃ガンが見つかった母はすぐさま手術し胃を全摘していたのです。

その姿は、言葉で形容できない程に痩せていて、その細い足で立っていることさえ不思議なくらいでした。

「胃ガンでちょっと入院したら痩せちゃったよー」

といつものように明るく笑う母に合わせて、極力なんでもないかのように振る舞いましたが、内心ではかなりショックを受けました。

 

久しぶりに家族水入らずの時を過ごし、まだ本調子ではないからということで母を先に休ませ、父と弟と私の3人で改めて今までの経緯について話をしました。

父の話では、私が外国に向け出港した直後の7月に胃の不調を訴え病院に行かせたところ、胃ガンと診断されたそうです。

すぐに処置が必要ということで、手術が行われましたが、47歳という年齢が災いしガン細胞の進行が早く、既に手遅れの状態だったそうです。

 

母には、その事実は伏せられていましたが、自分の体のことですから恐らく自覚していたのではないかと思います。

ですが、私達家族の前では弱みを見せることなく、早く回復してあれをしたいこれをしたいと常に前向きに過ごしていました。

弟はすでに大学を中退し、付ききりで母の世話をしていました。

 

私もできるだけ、母のそばに居たいと思い、この時点で自衛隊を退職して地元で再就職しようかと思いましたが、今では自衛隊への就職を喜んでくれている母を余計に心配させるだけだと思い直しました。

「近くには居てあげられないけど、しっかり働いている姿を母に見てもらおう」

そう、決意したのです。

 

しかし、やはりガンの進行は予想以上に早く、1月には再入院してしまいます。

父から

「次に入院したら、もう家には戻れないだろう」

と聞いていたので、いよいよ覚悟を決める時がきたと感じました。

 

江田島で任務船務課程修業を前日に控え、教官や同期と送別会をしている時に学校から連絡がきました。

「お母さんが危篤状態にあるので、すぐに帰省するように」

いつ何が起こっても対処できるように、島内に車を待機させておいた私は当然この日もノンアルコールで過ごしていましたので、すぐに北九州へと向かいました。

江田島から北九州までは約250kmで急いでも4時間はかかります。

「最後にもう一度だけでも声を聴きたい」

そう祈りながら、母の病院へ向かいました。

 

病院に到着した時、小康状態に回復したとのことでしたが、もはや話のできる状態ではありませんでした。

深夜ということもあり、家族は一時帰宅することにしました。

ですが、次の日に母は静かに旅立ちました。

 

家族に心配をかけたくない、旅立ちを見られたくないという思いがあったのでしょう。

この数か月の間、毎日覚悟してきたことでしたが、この現実をなかなか受け入れることはできませんでした。

残された私たちは時間の流れをいつまでも止めておくことはできないと分かっていても・・・

慌ただしく葬儀を済ませた私は、そのまま佐世保の任地に向かうことになりました。

ですが、心の中にぽっかりと穴のあいた状態の私にとって、これ以上自衛隊で勤務することに何の意味も見いだせない気持ちで一杯でした。

 

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