底触によって変形したプロペラの臨時修理を終了し、再錬成訓練が始まりました。
事故さえなければ、やる必要のなかった訓練による出港の毎日が始まります。
同乗の隊司令からは操艦号令の抑揚がおかしいとか、話し言葉の語尾が馴れ馴れしい(・・・ですので」が「・・・ですよね」に聞こえるそうです)など『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』方式で叱責される毎日でした。
指導と叱責の差は受けている当人が一番敏感に感じるものです。(良い教訓を得ました。ですが、人間関係はあくまでも個人と個人の波長の問題ですから、好き嫌いがあるのは仕方のないことです。)
罪人としては何を言われても『忍』の一字ですが、頭の中では山本五十六元帥の『男の修行』を思い出して耐えていました。
「言いたいことも有るだろう・・・」というあれです。
艦の雰囲気は一変して悪くなり、あちこちで不満がささやかれるようになります。
そんなある時、昼食のカレーに金属研磨剤『ピカール』が混入されます。
他の幹部が何も言わず食べていたところを見ると、士官室係から私個人に向けられたテロ行為だったのでしょう。
自分たちのこの不遇(毎日出港して訓練)は航海長が招いた不幸だといいたかったのかな?
それまで、艦全体の雰囲気も良く一体感を感じていただけに精神的にはかなり堪えました。
『終わり良ければ全てよし』の反意語は『終わり悪ければ全て悪し』ということなのかもしれません。
そんな苦しい中でも、最後まで信頼を寄せてくれたのが艦長と航海科員でした。
肉体的精神的に苦しかった再錬成訓練が終了した頃、転勤の内示を受けます。
航海長として着任してから、わずか10か月での転勤です。
配属先は横須賀のプログラム業務隊・・・初めての陸上配置です。
「ナニスルトコロダロウ?」というのが正直な感想でした。
しかし、この配置についてわざわざ司令から「左遷じゃないからな」と念を押されたことで
「ああ、陸上部隊に干されたということか」と思い知らされました。
(航海長終了後の5配置目で陸上配置なることは、本来であれば普通の人事であすますが、今回はこのタイミングですから・・・)
全体の見送りの前に艦橋で航海科員に暖かく見送られたことがせめてもの救いではありましたが、何かに追われるように寂しく舞鶴を後にしました。
K信号員長筆頭に本当にいい航海科でした。私は航海長在艦中に江田島に行きましたが。私はYZ司令嫌いでしたね S艦長と、I艦長は好きでしたよ。
私が航海長という大任を果たせたのは、ちくま航海科のみなさんあってこそです。
航海科というのは大航海時代から連綿と繋がる洋上の職人集団ですから(笑)
そういう職人特有の義理とか人情にいつも支えられていましたね。
この歳になっても省みて懐かしい青春の思い出です。
私は士官室係の番長を長期航海する時はよく指名されていました、私も幹部の皆さんに対し、不満もありましたが 、異物混入は、4分隊の方々に対する裏切り行為、まして、士官の皆さんの健康を脅かす行為なので、決して許していませんでした、この記事を読んで、異物混入をした、士官室係に憤りを感じました、
チェリー 様
自分がされて嫌なことは他人にもしないというのが人間としてのマナーだと思います。
しかし、不満のはけ口が他になかったというのも管理サイドの問題だとして受け止めました。
いずれにせよ、その場のノリでやり過ぎて犯罪者にならないようにしてもらいたいですね。
辛かったんですね。でも、航海科と艦長が支えてくれたのはよかった。読んでいて、涙が出ました。
雷蔵 様
逆境にある時こそ人の情けが心に響きます。
自分も他人に対してそういう存在になりたいと思いました。
人生の中で体験する辛いこと苦しいことは、その時点では忌まわしいものに違いありませんが、振り返ってみると自分を成長させるために必要不可欠なものだと思います。
それを体験に基づいて理解できたからこそ、現在では逆境を楽しめるようになったのかもしれません(笑)